ドラッカーの著書にある問いかけ
ドラッカーの有名な記述の一つに、「何によって憶えられたいか」があります。
私が一三歳のとき、宗教の先生が「何によって憶えられたいかね」と聞いた。誰も答えられなかった。 すると、「答えられると思って聞いたわけではない。 でも五〇になっても答えられなければ、人生を無駄に過ごしたことになるよ」といった。
(中略)
今日でも私は、いつもこの問い、「何によって憶えられたいか」を自らに問いかけている。 これは、自己刷新を促す問いである。自分自身を若干違う人間として、しかしなりうる人間として見るよう仕向けてくれる問いである。
自分はもう40歳を過ぎていますが、自分はいまだに分かりません。
憶えられたい相手は?
この問いかけは、相手があって成立するものです。
しかし、そもそも憶えられたい相手というのがピンときません。 まあ、家族は入ると思いますが。。。
自分はそもそも他の人に対する関心が低すぎるんですよね。 共感力偏差値が18ですし(→エムグラム)。
疲れました
問題はそのつらいことよりも、何かがあって倒れたときに、途方に暮れてしまいそうなことです。
10年前の内定取消のときがそうでした。
結局10年経っても本質的には何も変わってないようです。
参考文献
冒頭の引用はこちらのp219からです。
この問いかけはあまりに有名なので、名言集にも載っています。
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