2014年5月31日土曜日

「否常識」を疑え

「常識を疑え」とはよく言われます。この考え方自体は役立つものだと思います。ただ、自分はそれよりも、「否常識」こそ疑うべきだと思っています。

「否常識」というのはどのようなものかというと、「常識を否定した結果として得られた"新たな常識"」のことです。例えば「マスコミは信用できる」というのが常識なら、ネットの「マスコミは信用できない」というのが「否常識」です。他にも次のようなものがあります。
  • ネットは規制してはいけない
  • 会社のために働いてはいけない
  • ベンチャー企業はすばらしい
「常識を疑え」というのも「否常識」の一つです。これを疑うべきということです。

注意すべきなのは、あくまでこれは「疑え」であって、「否定しろ」ではないということです。結果として常識が正しいかもしれないし、「否常識」が正しいかもしれない。全く別の考えが生まれるかもしれない。重要なのは、「常識を疑え」はあくまで「常識に囚われるな」であって、常識を否定した結果に囚われてしまっては意味ありません。

そして「否定」を目的としている限り、それは最悪の結果を招きます。例えばキリスト教という「常識」を破壊して理性教という「否常識」を打ち立てたフランス革命のように。最高存在の祭典の記述は何度見ても恐怖で身が震えます。

「改革」を唱えた人の多くが大失敗するのも同じ理由です。「常識を否定すること」が目的になっていて、それが本当に正しいものかどうかに目を向けないため、間違いがあっても自分の考えを改めることが出来ず、自滅します。

ネットにはこのような「否常識人」がたくさんいます。例えば「ネットはすばらしい」も、最初は文字通り「ネットはすばらしい」でした。しかし、いつの間にか「リアルは敵」という考えが混じってきました。「リア充爆発しろ」が冗談でなくなってきている人も出て来ています。

そして「マスコミは信用できない」と言った結果、ネットはマスコミよりも劣悪な、煽りとデマだらけのメディアばかりが並ぶ無法地帯になってしまいました。「否常識人」には満足かもしれませんが、自分には耐えられません。

このように「否常識」に囚われると、最終的には自分が不幸になり、それ以上に周りを不幸にします。そのような人たちを見ると正直呆れます。「否常識」に囚われるくらいなら、普通の人の方が自分は素晴らしいと思います。

「非常識」な人は最初は反発されますが、それが「本物」ならば、最終的に受けいられることがほとんどです。しかし、「否常識」な人は常に「偽物」であるため、ただ社会を混乱させるだけです。